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 〒649-5171
 和歌山県東牟婁郡太地町大字太地2934-2
 Tel.:0735-59-2400
 Fax.:0735-59-3823

太地町と捕鯨の歴史
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。
紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。
しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。
近年、国際捕鯨の規制により、太地の捕鯨も厳しい状況を迎えましたが、今までの歴史・伝統を観光面に生かしながら新しい「くじらの町」として発展しています。
古式捕鯨絵巻(太地町くじらの博物館所蔵)  クリックで拡大
大背美流れ(おおせみながれ)
明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒模様の海へ総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。
発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていた。
鯨は湾内の方に向い、母鯨がわずかに網にかかり驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。
船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時、ついにしとめることができました。
しかし、食料と水は絶え精魂使い果たした男達の必死の力では、見上げるばかりの巨鯨は力漕しても船が進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向いついに黒潮の流れに入ってしまった。そのままでは助かる見込はなくなり、係留綱を断ち切り、それぞれの船を繋ぎ固め再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、すでに櫓を持つ力さえ失い、荒れ狂う海に次々と沈んでいきました。
生きなければならない、全員で洋上を渡る師走の風は身を刺す寒さで、日が暮れていくのにつれて波もうねり、互いに衝突し浸水する船も出始めたため、午後4時頃、ついに各船を結び止めていた綱を断ち切ることになりました。
解き放たれた船は強風怒涛に巻き込まれ、老人から10才にも満たない少年までが乗る船は、漂う木の葉のように海中に沈み、それは将に地獄の様そのものでした。
記録によるとその月の30日、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名とされ、餓死12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。
 大背美流れについて詳しくご覧下さい。
 
世界の捕鯨年表
西暦(年号) 捕鯨の歴史
B.C.2200年 ロドイの岩壁に鯨の絵。
2000年 ギリシャの伝説に鯨やイルカが登場。
1200年 クレタ島ソノッソス宮殿にイルカの壁画。
A.D.1000〜1100年 熊野・伊勢・尾張では、セミ・ザトウ等の大型鯨は単発的に、ゴンドウ等の小型鯨はそれ以前から捕られていた。
700年ごろ 古事記(神武天皇に鯨肉を奉った話)に鯨が登場。
日本書紀に鯨についての解釈が記述。
万葉集に12首「いさなとり(鯨とり)」が海、浜の枕言葉として使われる。
1000年 バスク人がビスケー湾で捕鯨。
1606年
(慶長11年)
太地で和田忠兵衛頼元が刺手組を組織し、捕鯨は急速に発展した。

1611年 イギリスが北極海で捕鯨を始める。
1675年
(延宝3年)
太地で和田角右衛門頼治(のちの太地角右エ門)が網取法を考案して大いに成果をあげ、五組の刺手組を鯨方一本に改めた。(太地家所有古文書によれば、1677年(延宝5年)開始とある。)
1677年
(延宝5年)
太地鯨方は鯨肉を朝廷及び幕府に献ずる。
1683年
(天和3年)
和田角右衛門頼治は、土佐津呂に網取法を伝授、その功績により太地姓を授けられた。
1758年
(宝暦8年)
和歌山の薬種商梶取屋次右衛門が大阪で「鯨志」(図1)を著述刊行する。
1825年 外国捕鯨船団が日本近海で操業。(735隻)
1845年 メルビルの「白鯨」の時代。
1853年
(嘉永6年)
ペリー提督、アメリカの捕鯨船員の保護と食料、飲料水の確保のため幕府に開国を迫る。
1863年 ノルウェーで捕鯨砲が開発される。
1878年
(明治11年)
12月24日、太地鯨方は鯨捕獲作業中、大暴風雨に遭遇し全滅、網取式捕鯨は衰退した。この遭難事件を「セミ流れ事件」として今も伝えられている。
1901年
(明治34年)
南氷洋で鯨が発見される。
1902年
(明治35年)
太地でナガスクジラを初めて捕獲。(ボンブランス銛)
1904年
(明治37年)
太地の人、前田兼蔵が連発銃を発明。改良型は1970年代まで使用した。(館内展示)
南氷洋で捕鯨工船操業。
1917年
(大正6年)
第一次世界大戦で油脂欠乏。
1934年
(昭和9年)
日本、南氷洋捕鯨母船、図南丸が初めて出漁する。
1936年
(昭和11年)
セミクジラの捕獲禁止。
1941年
(昭和16年)
第二次世界大戦で、捕鯨を中止する。
1945年
(昭和20年)
戦後、小型沿岸捕鯨を再開。太地でも16隻が操業へ。
1946年
(昭和21年)
国際捕鯨取締条約が締結、南氷洋での捕獲が1万6千頭に規制される。
二船団で南氷洋捕鯨再開、小笠原母船式捕鯨開始。
1949年
(昭和24年)
IWC(国際捕鯨委員会)第1回会議。
1951年
(昭和26年)
日本がIWCに加盟。
1954年
(昭和29年)
北大西洋でザトウクジラの捕獲禁止。
1955年
(昭和30年)
北大西洋でシロナガスクジラの捕獲禁止。
1963年
(昭和38年)
頭数国別割当方式へ。
南氷洋でザトウクジラの捕獲禁止。
イギリスが捕鯨中止。
1964年
(昭和39年)
南氷洋でシロナガスクジラの捕獲禁止。
1966年
(昭和41年)
北洋のシロナガスクジラとザトウクジラの捕獲禁止。
1971年
(昭和46年)
IWC総会で捕鯨禁止発言。
1972年
(昭和47年)
ストックホルムでの国連人間環境会議でモラトリアム(一時停止)採択。
IWCがモラトリアム否決。
国際監視員制度実施。
ノルウェーが南氷洋から撤退。
1973年
(昭和48年)
カナダ、バハマなど捕獲中止。
1976年
(昭和51年)
南氷洋でナガスクジラの捕獲禁止。
北洋でナガスクジラ、イワシクジラの捕獲禁止。
1978年
(昭和53年)
IWC会議に反捕鯨団体乱入。
1980年
(昭和55年)
北洋でマッコウクジラの捕獲禁止。
1981年
(昭和56年)
南氷洋でマッコウクジラの捕獲禁止。
1982年
(昭和57年)
IWCが商業捕鯨モラトリアム採択。
1988年
(昭和63年)
日本が商業捕鯨を中止。
1990年
(平成2年)
IWC総会で南氷洋海域のミンク鯨推定資源量を、76万頭で確認。
1992年
(平成4年)
フランスが南氷洋のサンクチュアリ(聖域)提案否決。
1993年
(平成5年)
日本各地でホエールウォッチング、ドルフィンスイム、ドルフィンタッチが盛んになる。
1994年
(平成6年)
IWC総会で南氷洋サンクチュアリ化案が可決。
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