太地町トップページへ
観光情報へ戻る
歴史文化を探る
遊んで体験する
美味しく食べる
宿を探す
イベント情報
観光案内所




















































▲ページのトップ




































































▲ページのトップ





































































▲ページのトップ

 ■太地にある捕鯨史跡
太地町と捕鯨の歴史
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。
紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。
しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。
近年、国際捕鯨の規制により、太地の捕鯨も厳しい状況を迎えましたが、今までの歴史・伝統を観光面に生かしながら新しい「くじらの町」として発展しています。
古式捕鯨蒔絵(太地町くじらの博物館所蔵)  クリックで拡大
  
大背美流れ(おおせみながれ)
明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒模様の海へ総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。
発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていた。
鯨は湾内の方に向い、母鯨がわずかに網にかかり驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。
船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時、ついにしとめることができました。
しかし、食料と水は絶え精魂使い果たした男達の必死の力では、見上げるばかりの巨鯨は力漕しても船が進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向いついに黒潮の流れに入ってしまった。そのままでは助かる見込はなくなり、係留綱を断ち切り、それぞれの船を繋ぎ固め再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、すでに櫓を持つ力さえ失い、荒れ狂う海に次々と沈んでいきました。
生きなければならない、全員で洋上を渡る師走の風は身を刺す寒さで、日が暮れていくのにつれて波もうねり、互いに衝突し浸水する船も出始めたため、午後4時頃、ついに各船を結び止めていた綱を断ち切ることになりました。
解き放たれた船は強風怒涛に巻き込まれ、老人から10才にも満たない少年までが乗る船は、漂う木の葉のように海中に沈み、それは将に地獄の様そのものでした。
記録によるとその月の30日、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名とされ、餓死12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。
 大背美流れについて詳しくご覧下さい。
 
和田忠兵衛頼元
日本の国は4方海に囲まれ、太平洋側には暖流が北上し、北からは寒流が南下しています。 これは鯨が秋には北から南へ、春には南から北へと海流に沿って回遊するので、日本周辺の海域には昔から鯨が多くいました。それで、日本の各地では古くから鯨をとリ食料として利用して来ました。
さて、この太地の沖はちょうど鯨の南下と北上の通路にあたり、人々はこの沖を「鯨が昼寝をするところだ。」と言うほどでした。ですから、古くから太地浦をはじめ他の浦々などでは寄り鯨(鯨が傷ついたり弱ったりなどして岸辺に寄ってくること)などをとっていたようです。
さて、慶長11年(1606年)のことです。太地の郷士(村に土着した武士)、和田忠兵衛頼元は、この捕鯨の有望性に着目し、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とあい協力し、突き取り法による捕鯨を始めました。それは、縄をつけた銛を用い、刺手組五組(突船5隻を1組とする5組)を組織する捕鯨法でした。
それまでは個人がお互いに助け合いながらしとめていたのでしたが、捕鯨法としてきちんと組織化させたのは頼元が初めてでした。当時としては実に画期的なことでありました。そして、このことは、わが国捕鯨が水産業として発展していく糸口ともなりました。
太地が古式捕鯨発祥の地と言われるのはこうしたわけなのです。
頼元は又、その運営に当って一組を村方の持ち分とし、利益をその人々に還元させました。頼元の働くものへの細やかな配慮を伺うことができます。そして、このような相互扶助の精神は町のうるわしい人情と風土を育む基盤ともなり、現在の水産共同組合設立の心として生きています。
頼元は、慶長19年(1614年)にこのすばらしい偉業を残し、その生涯を閉じました。
 
燈明崎
その昔、「室崎(ムロザキ)」と呼ばれていましたが、いつしか「太地崎」に変わり、寛永13年(1636)10月13日、新宮藩から派遣された士分(武士の身分)が常駐する鯨油を利用した燈明灯台が設置されてからは「燈明崎」となりました。
ここには古式捕鯨を偲ばせる狼煙場跡や復元された山見台・燈明灯台があり、太平洋を一望することがます。
また、太地は昔「室崎」または「牟漏崎」とよばれていたことが紀伊国続風土記などの文献にあることから和歌山県の東西、三重県の南北にある「牟婁郡」の由来はここにあるという説もあります。
 
古式捕鯨高塚連絡所跡
燈明崎・梶取崎と同じ山見の1つですが、鯨を発見するというより、山見相互の連絡を主とした役割をもっていました。
当時ここでは老爺(オヤジ)他1名がその任にあたっていて、燈明崎・梶取崎の各山見から狼煙が上がるとそれを受けてここで狼煙を上げ、また、鯨の種類や突き捕ったことなどの状況は布旗やむしろ旗を使って向島山見に知らせていました。
それは、地下(ジゲ)で次の準備を待ち受ける人達への克明な情報となりました。
この位置は燈明崎と梶取崎の両点から殆ど同じ距離にあり、この3点を結ぶと恰も正3角形を形づくる関係にあることから推測すると、実に周到な計画のもとにここに設けられたかが分かり、人々の英知が集められ、陸と海の両面から立体的に捕獲に集中されたその緻密さを強く感じることができます。 
燈明崎山見台
この木造の山見台は、平成4年に古式捕鯨絵図を参考にして御崎神社の前に復元したものです。
山見台というのは、太地古式捕鯨では総指揮所のことで、別名「めがね」とも呼ばれていました。
広い洋上で鯨を追い、網を張り、突き捕るには全体を見渡せる位置から総括し、適確な指示が必要となります。
それらの指揮、伝達など全てを司る重要なところが山見台で、この条件にあった燈明崎と梶取崎の突端にあり、その中心は燈明崎山見台で、他にも連絡を主とした向島(ムカエジマ)と高塚がありました。
燈明崎の山見台は沖に鯨を発見したり見張り船から鯨発見の信号をうけた場合、それらを支度部屋の山檀那(ヤマダンナ)に知らせてその指揮命令を受け、沖の船団と交信しながら鯨を捕らしめる重要な任務を司るところで、山檀那をはじめ老爺(オヤジ)と呼ばれる相談役やその他およそ10名がその任にあたっていました。
 
古式捕鯨支度部屋
古式捕鯨支度部屋は、網取法が始まった延宝3年(1675)、燈明崎山見台よりおよそ20m手前に設置されたのではないかと推定され、古式捕鯨終わりの明治38年(1905)まで建てられていたといわれています。
ここには常に山檀那が控えていて、炊事も行われた他、鯨の接岸が少なくなったり捕りそこなった時には近くの観音様で大漁祈願をし夜に籠ることがありましたが、そんな場合にも使われていました。
山見台に勤務する人達は、いつも夜明け前にここに来ていて、山見台に上る前には大海原に昇る太陽を拝み、大漁と安全を祈り、寒くて暗い朝にはこの支度部屋で体を暖め、東の空が明るくなるのを待ったということです。
回り廊下もあり立派だったとされるその支度部屋も、今は木立の静寂の中に跡地だけがその歴史を留めています。
 
くじら供養碑
人間が幸せに生きていくために大事なことの1つは、自分に生き甲斐のある職業を持つことです。しかし、どんな仕事にしても働くことの満足感や喜びがある反面、そのきびしさや悩みも伴います。
私達の先人の多くは、鯨に挑むことを誇りとして生き甲斐と糧を求め、長い間生計を営んできました。
しかし、仕事の宿命というべきか、捕鯨に関わる人達は避けて通れない心の痛みや悲しみに直面せざるを得ませんでした。
それは「いのち」を持つ鯨をしとめるということでした。
どんなに仕事や生活のためとはいえ、つい今しがたまで恰も大洋を楽しむかのように泳いでいたその鯨を追いつめ、射止めてしまうのです。
鯨との闘いの末、懸命にもがき廻ったその鯨がぐったりとその巨体を横たえた時、海の男達は「やったぞ。」と勝利者の叫びをあげながらも、その歓喜はまた「なんと申し訳のないことをしてしまった、許してくれ。」という深い詫びと悲しみに変わるのでした。
そして、ひたすら異口同音に「南無阿弥陀仏、、、、」と唱え、鯨に向って手を合せるのでした。
それが海の男達の精一杯の気持ちでありました。
このことは、陸に揚げられた鯨を処理する人達にも全く同じことでした。
熊野灘を一望する梶取崎園地の一角には我が国の捕鯨発祥の地として「鯨魂の永く鎮まりますよう」という願いを込めたくじら供養碑が建立されていて、毎年4月29日にはここで捕鯨OBが主催する「くじら供養祭」が行われます。
 
捕鯨船資料館(第1京丸)
平成 24 年2月に陸揚げされた捕鯨船、第一京丸です。第一京丸は、北洋・南氷洋捕鯨で活躍した共同船舶株式会社の捕鯨船(全長69.15 m、総重量1150 t)です。
 船内、外観、エンジン、厨房の食器なども操業していた当時のまま残しており、内部の一般公開は行われていません。

 
和田の岩門(セキモン)
昔から「和田の岩屋」や「和田の岩門(セキモン)」などと呼ばれているところで、風化作用でできた洞窟です。
その昔、諸国を漂泊していた朝比奈三郎義秀が太地浦に来て、ここを生涯の地と定め、この岩門の内側に居を構えて世を偲んだといわれています

 
 ■太地の景勝、観光スポット
平見台園地
勇壮な岸壁の上には駐車場とその岬の突端には展望台があり、大島(串本町)や浦神湾(那智勝浦町)、太地の海岸線が一望できます。
また冬でも暖かい気候のため、1年中恵まれた自然を楽しむことができるほか、周囲に灯りが無いことから、きれいな星空を見ることもできます。
岬から道を挟んだところには、桜が植えられた公園があります。
 
梶取崎園地、灯台
梶取崎という地名は、一般に熊野灘を航行する船舶がこの岬を目標にして進路をたて梶を取ることからついたといわれています。
梶取崎の岬の原は芝生のじゅうたんが敷き詰められ、白亜の灯台、夫婦(メオト)ビャクシンとともに美しい風景を造形しています。
この灯台は明治32年に設置された無等不動白色の灯台が現在に至っているものです。
一方、夫婦ビャクシンは、2本の木が絶えず吹き付けるきびしい潮風に耐え腕を組み合うようにしてたくましく成長していく姿が人生を力強く生き抜く夫婦に例えられ、そう呼ばれるようになったのだろうということで、高さは10m、幹周りは250cmを共に越え、樹齢は350年余りと推定されています。
梢を渡る風の音が、この木の下にたたずむ人々の心に安らぎを与え続けていくことでしょう。
 
たかばべ園地

黒潮おどる熊野灘を一望する高台で、男性的な海岸の景色は他に類を見ないものです。

 
浅間山園地(せんげんやまえんち)

遊歩道側と県道側(くじらの博物館横)の2つの入口があり、その上には浅間神社が祀られていますが、そこには社がなく「もう神はいない」と思う人もいるかもしれませんが、社の有無にかかわらず祀った跡があればそこが祭場で、立派な神社です。最近まで太地に浅間講があり、その信者が時々ここに詣っていたことから、浅間講の行者によってもたらされたものと思われます。
くじらのモニュメント

ふるさと創生事業の一環として、平成3年の夏に設置されたもので、実物大のザトウクジラの親子が観光客を出迎えてくれます。当初は国道から町内への道路上部にアーチ上に設置されていましたが、東南海沖地震等、大規模災害に備えて現在の場所へ移されました。

 
▲ページのトップ
▲戻る
Since:16.June.1999 Copyright:1999-2006 Taiji Town Office