太地の歴史は古く孝謙天皇の天平勝宝6年(756)遣唐使・吉備真備が帰朝の際、「牟漏崎(現在の太地町燈明崎)に漂着した」との記述が続日本紀に見えます。

孝徳天皇の大化2年(646)に太地は木の国牟婁郡神戸郷に属し、その後、熊野三山を統轄する熊野別当が勢力をもつにいたって那智荘に、また元和5年(1619)、奥熊野の大半を領有した新宮藩水野氏の治下に属しました。

明治21年の村制実施に伴い、明治22年4月1日太地村と森浦村の両村を合併して太地村と称し、捕鯨事業やマグロ漁業など、海外発展への盛況を見せ、人口の増加と共に、大正14年4月1日より町政が施行され太地町として今日に至っています。

町章 町章
1965年(昭和40)9月に制定され、太地(Taiji)のTを図案化し伝統の鯨を象徴し円は町民の和を表徴し▽は町の躍進をあらわし色はみどりで国立公園地帯を意味するものです。

町の花:ハマユウ町の花:ハマユウ
太地町の沿岸に自生し、古来より万葉集にも歌われ住民にも親しまれています。

 

町の鳥:イソヒヨドリ町の鳥:イソヒヨドリ
太地町の沿岸に自生

 

所在地
〒649-5171 和歌山県東牟婁郡太地町大字太地3767-1
Tel.:0735-59-2335 Fax.:0735-59-2801


太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われています。日本人が何千年も前から鯨類を利用していたのは多くの考古学的事実からわかっていますが、組織的な産業活動として成功させたのは、史実によって確認できる限り、太地の和田頼元(わだよりもと)が最初だと考えられています。

武士の出であった頼元は、兵法の観点から捕鯨に取り組みました。船乗りを組織し、山見と呼ばれる探鯨台を設置し、旗や狼煙(のろし)による通信網を整備するなどの戦いの技術を駆使して、鯨を捕獲したのです。

後に彼の孫にあたる和田頼治(わだよりはる)が、網を用いて鯨を捕るという独創的な漁法を発明しました。これは、あらかじめ設置した網に鯨を追い込み、遊泳速度を弱めた上でモリを使って捕獲するという方法です。
網捕り式の捕鯨は大きな成功をおさめましたが、太地の人々はこの技術を独占せずに公開したので、すぐに西日本各地に広がっていきました。

日本の網捕り式捕鯨は。200年近くにわたって繁栄を続けました。しかし、日本周辺に西洋の捕鯨船が出没するようになるとともに、状況は少しずつ変わってきました。西洋の捕鯨が、沖でたくさんの鯨を捕獲したために、日本の沿岸まで近寄ってくる鯨の数が減少してきたのです。
また西洋の捕鯨船は、物資の補給を求めて、日本への寄港を強く要求するようになりました。特に米国捕鯨船の日本寄港許可を求めたペリー提督の浦賀来航(1853年)は、その後の日本を開国へと導く画期的な事件となりました。

開国とともに、日本人は多くの捕鯨技術を西洋から取り入れ始めました。沿岸で待って捕る古式捕鯨が完全に行き詰ってしまったため、積極的に沖に出て捕ることが必要になったからです。最初は米国、後にはノルウェーが日本の捕鯨近代化のお手本となりました。

19世紀末の石油の発見により、灯油生産を主目的としていた西洋の捕鯨は急速に衰退をはじめました。しかし、日本では食肉生産が捕鯨の主要な目的であったために、捕鯨産業は20世紀に入ってからも成長を続けました。

第二次世界大戦により日本の捕鯨に大きな打撃を受けましたが、終戦後間もなく占領軍マッカーサーの指示によって、捕鯨は飢餓に苦しむ国民を救うという大きな役割を与えられることとなり、目覚ましい勢いで復活を遂げました。そして数年後には世界一の生産高を誇るようになります。

国際捕鯨委員会(IWC)によって捕鯨が禁止される1987年まで、日本には母船式捕鯨、大型沿岸捕鯨、小型沿岸捕鯨の3種類がありました。

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